再び読んでみた

 

人を動かす 新装版

人を動かす 新装版

 

毎週金曜日に、今週読んだ本を紹介しているが、今読んでいる本とは別にこの本を紹介したい。
と言っても、この書籍は日本国内で430万部、世界で1500万部以上を売り上げていて
発売から70年近く経った現在でも売れ続けるという超ロングセラーである。
なので、あえて紹介するまでも無いのだが・・・

昨日、ブログを書いたあとお風呂に入っていたらなぜか突然この本の事が頭に浮かんできた。
最初にこの本を読んだのは、大学生の時で、「なるほどね」と思いながら読んだ。
その後、社会人になった直後に上司から勧められて再び読んだ。
内容はとてもシンプルで読みやすい本だ。

ところで、何故この本を思い浮かべたのかは良く分からなかったが、掻い摘んで読み返してみたら
なんとなく思い浮かべた理由が分かった。

 反省と自戒を込めて大事な部分を要約して書き留めておく。

 

およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。
相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということを

よく心得ておかねばならない。

優れた心理学者ウィリアム・ジェームズは、「人間の持つ性情のうちで最も強いものは、他人に認められることを渇望する気持である」という。
ここで、ジェームズが希望するとか要望するとか、待望するとかいうなまぬるいことばを使わず、あえて渇望するといっていることに注意されたい。

 

議論は、ほとんど例外なく、双方に、自説をますます正しいと確信させて終るものだ。
議論に勝つことは不可能だ。もし負ければ負けたのだし、たとえ勝ったにしても、やはり負けているのだ。
なぜかといえば――仮に相手を徹底的にやっつけたとして、その結果はどうなる?
やっつけたほうは大いに気をよくするだろうが、やっつけられたほうは劣等感を持ち、

自尊心を傷つけられ、憤慨するだろう。
 
「議論に負けても、その人の意見は変らない」

 

われわれは、自分の非を自分で認めることはよくある。
また、それを他人から指摘された場合、相手の出方が優しくて巧妙だと、あっさり兜を脱いで
むしろ自分の率直さや腹の太さに誇りを感じることさえある。

しかし、相手がそれをむりやりに押しつけてくると、そうはいかない。

 

相手の心が反抗と憎悪に満ちている時は、いかに理を尽しても説得することはできない。

相手は間違っているかも知れないが、彼自身は、自分が間違っているとは決して思っていないのである。

だから、相手を非難しても始まらない。非難は、どんな馬鹿者でもできる。理解することに努めねばならない。

賢明な人間は、相手を理解しようと努める。

 

われわれの人となりには、自分が手を下してつくった部分は、ほんのわずかしかない。
したがって、われわれの接する相手が、どんなにいら立っていたり、偏屈だったり、わからずやだったとしても、
その責めをすべて本人に帰するわけにはいかない。気の毒だと思ってやるべきだ。同情してやることだ。そしてこう考えるのだ。

「もし神さまのお恵みがなかったら、この相手が、わたし自身の姿なのだ」

 

まず相手をほめておくのは、歯科医がまず局部麻酔をするのによく似ている。
もちろん、あとでガリガリやられるが、麻酔はその痛みを消してくれる。

 

人に小言をいう場合、謙虚な態度で、自分は決して完全ではなく、よく失敗をするがと前置きをして、
それから相手の間違いを注意してやると、相手はそれほど不愉快な思いをせずにすむものだ。

 

命令を質問のかたちに変えると、気持よく受け入れられるばかりか、相手に創造性を発揮させることもある。
命令が出される過程に何らかの形で参画すれば、だれでもその命令を守る気になる。

 

相手の顔を立てる! これは大切なことだ。しかし、その大切さを理解している人は果して幾人いるだろうか?
自分の気持を通すために、他人の感情を踏みにじって行く。

相手の自尊心などは全く考えない。
人前もかまわず、使用人や子供を叱りとばす。もう少し考えて、一言二言思いやりのある言葉をかけ、
相手の心情を理解してやれば、そのほうが、はるかにうまく行くだろうに!

たとえ自分が正しく、相手が絶対に間違っていても、その顔をつぶすことは、

相手の自尊心を傷つけるだけに終る。
あの伝説的人物、航空界のパイオニアで作家のサンテグジュペリは、次のように書いている。
「相手の自己評価を傷つけ、自己嫌悪におちいらせるようなことをいったり、したりする権利はわたしにはない。
大切なことは、相手をわたしがどう評価するか、ではなくて、相手が自分自身をどう評価するか」である。

相手の人間としての尊厳を傷つけることは、犯罪なのだ。

 

批判によって、人間の能力はしぼみ、励ましによって、花開く。

子供や夫や従業員を、馬鹿だとか、能なしだとか、才能がないとかいってののしるのは、向上心の芽を摘み取ってしまうことになる。
その逆を行くのだ。大いに元気づけて、やりさえすれば容易にやれると思い込ませ、そして、

相手の能力をこちらは信じているのだと知らせてやるのだ。
そうすれば相手は、自分の優秀さを示そうと懸命に頑張る。

 そして、最も好きな部分が

自分が犯した誤りを認める勇気には、ある種の満足感がともなう。
罪悪感や自己防衛の緊張がほぐれるだけでなくその誤りから生じた問題の解決にも役立つ。

どんな馬鹿でも過ちの言い逃れぐらいはできる。
事実、馬鹿はたいていこれをやる。
自己の過失を認めることは、その人間の値打ちを引き上げ
自分でも何か高潔な感じがしてうれしくなるものだ。

自分に誤りがあるとわかれば、相手のいうことを先に自分で言ってしまうのだ。
そうすれば、相手には何も言うことがなくなる。
10中8、9まで、相手は寛大になり、こちらの誤りを許す態度にでるだろう。